今日は雨なので、かみさんと、近所のスーパーに行きました。
月曜日はかみさんも仕事が休みなので、いつものスーパーにお買い物についていきました。
久々のスーパーでお買い物をしたので、テンションが上がってしまって、店内を不謹慎ながら、いち推し市の市の歌を歌いながら、笑い転げるように歩いていました。
軽快に流れる、お店の歌がコミカルすぎて、いち推し市の市を探してしまう自分がいて、いろんな人が市に見えてしまい、最後の方はかみさんを市と呼んでは、怒られながら、久々の夫婦水入らずを楽しんだのでした。(笑)
まあ、何を言っているのか、分からないと思いますが、ワイワイ言いながら家に帰って来て、荷物を置いて、ご飯も食べに行こうという事になり、また出かけたのです。
少し遠出して、船橋のTOBUデパートに行き、ウインドショッピングをしながら、ぶらぶらしていたら、本屋さんで入手困難品の本の市をやってました。
市繋がりですが(笑)、どれどれと漁っていると、何やら気になる、タイトルの本あるではないか、と手に取って、パラパラ読んでなるほどと、うなずいて購入しました。
その本のタイトルは、古池に蛙は飛び込んだのか、と言うタイトルでした、その中身を見ると、なぜ芭蕉はこの句を呼んで、なぜこの句が芭蕉の代表作なのか、と書いてありました。
そうなのです、僕も実は気になっていたのです。
芭蕉が古池に飛び込むカエルの事を詠んだ、この句は、昔、朝学校に行く途中の池で、僕の気配にびっくりして、カエルが池に飛び込んでいる音を思い出すのです。
この風景が重なり、この句が、何とも不思議な感覚になり、とても身近で、手に届きそうな句であったのを覚えてます。
本を読んで、疑問を解消できるか、分かりませんが、とても深い句であったようなので、僕なりの感想を書きます。
古池が、芭蕉の頭の中のモノなら、蛙は飛び込んだ音がしたようなってことになるのですが、小学校の時に、朝学校に行く前に、立ち寄った池が、今は、立派なマンションが立っています。
芭蕉は、この句で未来の事を見たのではないかと思うのです。
移り変わっていく様は、今も昔も同じで、その速さやどうしょうもない流れには勝てないと、少し懐かしくもある、その風情をうたったのではないかと、思うのです。
実際にその歌で、出てくる古池は存在しないと書いてありました。
もし、そうなら芭蕉は、目に見える世界の形が変わるとも、変わらない想いや哀愁があると、見えていたのかもしれません。
流行や廃りがあるように、決して変わらないモノもこの世には、あるわけで、僕は、そこを極めて行きたいです。
なるべく、流行に敏感でいて、変わらない人の頭の中を大事に、お庭を作って行きます。
いつもブログを読んで頂きありがとうございます。