今日も、引き続き工場内のお稲荷さん周りの、カイヅカの剪定をしました。
作業には、大まかに分けて、二つの側面があり、剪定などは、三脚のハシゴを立てて登り、樹木を切って地上に落とし、排出する事が、肉体的な作業になります。
それとは別に、三脚をどこに位置に立てれば最適なのか、登って樹木を見てどこを残して、切って行くのかを、経験と環境から答えを出し、排出の時に、トラックの位置や、落とした葉などを、回収しやすくするために、あらかじめブルーシート広げて置いたりするのです。
ベテランになると、登ってどこを切ればよいかは、経験で分かってきますが、それでも、間違いがあってはいけないので、簡単なリサーチを携帯で調べたりします。
言葉や、文字に置き換えると、作業工程は、簡単で単純に見えてしまいますが、そんな事を考えながら、作業をして行くので、樹木や庭木の剪定には、ある程度の経験と、覚悟が必要になるのです。
もちろん、植物は、語らないですが、結果が常に伴い、雑に切れば、異様に葉が出て来り、または、枯れてしまいます。
そんな経験を経て、職人は、一人前になるのです。
責任と、自己否定の繰り返しが、その人を他にはいない、自身の考え方や、独自の製法的なモノが、生まれてくるのでしょう。
ここの、工場の責任者が、まだ30代の若い人で、作業をしているときに、何度か見に来て、まだ終わっていない剪定を見て、少し不安げな顔で、イイダに、これで終わりと聞くのです。
説明をしても、耳に入らずで、不安な顔で、頷きながら、事務所に入って行きました。
まあ、不安にさせるイイダがいけないのですけど、仕上がりを見れば、納得してくれるはずなので、気にはして居ませんが、なぜ、そのような感じになるのかを、考えてしまいます。
きっと見えない部分が、見えていないのか、イイダが何を考えて、その場にいるかまでは、誰もわからないのですが、マニアルだらけのシステムや、工程表だけで、見えていないモノがあるのだと、思いました。
これは、現代のシステムには、まだ足らない何かがあるのと、その部分には、人の個性や思いなどが欠落しているのではないかと、ボトルネックを探し、樹木の説明から、この時期の切り方と、この環境の説明をして行きました。
作業も完了まじかに、多分この会社さんの、お偉いさんが見に来て、イイダに頭を下げて、あいさつしてくれて、キレイに切ってくれてありがとうございます、の声まで、頂きました。
隣にいる、若いお施主様のエリートさんも、曇った顔が、晴れて行くのが分かりました。
これも、また大切な経験になるので、イイダは目の前の人を笑顔にして行こうと思いました。